Greeting川本屋の
 昔ばなし

兵庫県香住にたたずむ創業七十年の湯宿川本屋。
そんな川本屋の成り立ちをご紹介いたします。

ごあいさつ

落ち着いた雰囲気の館内。食材はもちろん、お出しするタイミングにまで
こだわったお料理。
そして湯の宿らしく、豊富な種類の湯を
お楽しみ頂けます。

誰かに伝えたくなる宿、次はあの人と、この人と…
思わず次の旅の計画を立ててしまう様な宿が
ここにはあります。

囲炉裏を囲み、友と語り合えば、
心安らぐ時間と
なるでしょう。

はるばる訪れてくださる皆様に
とびきりのひとときを
ご用意して、
お会いできます日を心より
お待ちしております。
湯宿 川本屋

かにといえば『かにすき』

かにすきの生みの親 川本屋のおはなし

時は昭和12年。勃発した『支那事変』は各国に広がり、ついに世界中を巻き込みながら『第二次世界大戦』へと発展していった。
昭和15年、戦地より帰国した川本氏は『半農半漁』、決して豊かとは言えなかった里に『満月講』という会を結成し、ふるさと振興を模索した。

その頃、大阪で『くいだおれ』という独創的な食堂経営をしていた山田六郎氏とも接触し、いろいろ助言を受けた。
「光三さん。釣り客を誘致して、世話をして見ならんか?」
『へんぴな土地』という悪条件を逆手にとって売り出していく発想も大切だ。

目からウロコの落ちた心地の光三氏は昭和22年、釣り客を相手にした民宿と磯渡しを手掛けた。磯渡しは時として命懸けの荒技である。

島渡しした釣り客が、夜半からにわかに時化てきた荒波に取り残された。
川本親子は決死の救出に向かった。
「荷物を投げろゥ。アッ流されたッ。」
「飛び込めェ。竿につかまれェ。」
舟をつけることのできない怒涛の中での救出劇は主客一体の荒技であった。
こうして『釣り宿・川本』は、次第に釣り客の信用を確立していった。
終戦のショックも少し落ち着きかけた昭和20年代の後半になると、ポツポツ海水浴の客が増え出した。口コミで客の層がますます広がり、釣り客専門から、旅館形式の『民宿』の形に変わっていった。

営業の武器は『信用』である。
・一人でも二人でも快く受ける。
・お客さんには必ず礼状を出す。

『道・一筋』を信条に客に接した光三氏は馴染みの客から教わることも多かった。
「カニはこれほどウマいんだから、ほかの食べ方もしてみまひょか?」

主客一体でカニ料理の研究も試みた。当時カニ料理のほとんどが『ゆでガニ』であったが、生ガニのまま鍋にする料理も開発してみてはどうか。

地物のマツバに吟味した食材、とくに調理には心をこめ、ほうれんそうを白菜で巻いて盛るなど心を配った。
そして昭和35年ごろ『かにすき』がデビューし空前の大ヒットとなった。
「こりゃまた、なんとうまいもんでんな、こんなうまいもん食べたことおへん。もう死んでも悔いはおへんナ。」
上方のご老人たちから絶賛の声を聞くと、鉢巻を締めなおし包丁をにぎる手にも力が入るのだった。
当時はまだ車より汽車で訪れる客の方が多く、帰りの土産にする『ゆでガニ』を作るのは時間との戦いだった。1泊して午前11時ごろの汽車までに56人分を準備しなければならない。リヤカーなどでは時間がかかるので、川本一家は毎朝暗いうちから湯を沸かし、市場から多量の生カニを自転車に山盛りにして、必死で間に合わせたのだった。

一代目光三の時代は遠くなり今は三代目になるが、今も光三が残してくれた、お客様から教わる謙虚な姿勢、いつでも快くお客様に接する心は受け継いでいる三代目剛志だった。